トワイライト裏業務日誌 2005年5月・6月
5月2日
 スッカリと世間はGWのようですね。
 幸か不幸かウチも連休状態(仕事的にはヒマという事です)なので、クリーンアップ週間と言う事にして、少し懸案になっていた職場整備に着手しとります!(最後まで貫徹できるかどうかは微妙です)

{欲しいものNo.1}
 皆さんの最も欲しいものって何ですか?
 「ふふん・・欲しくないもの以外全部!」だなんて欲張りなコメントは別として、オレも人並み程度には物欲があるんものの、今、最も欲しいなぁと思っているのは、自分用の図書館なのです。
 やっぱり、ウチの仕事部屋と自分の部屋が片付かない根本の原因は、本の多さなのです。(ウソつけ!ホントの原因は、オマエのグータラにあるわい!と言われそうですが・・・)
 今回”も”、本棚を増備して本の収納にあたる予定なんだけど、本棚を増やしても増やしても、競争のように本も増えるばかりで、そのうちドラえもんの3次元ポケットにでも収納しないといけないかと思っているくらいなのです。
 何で、そんなに本の数が、右肩上がりのバブル真っ最中なのかというと、一気に大量に買い込んだりする悪いクセが治らないのと、読んだ後で捨てたり、売却したりしないもんだから、財布の中身と室内スペースの減少に反比例して、本が激増するというワケなのです。(意味無い相関関係?)

 「本が増える理由はわかった。でも何で書斎じゃなくて図書館なんや」と疑問をお持ちの皆様へ。
 読んで保管する本を系統的に整理する事もやって欲しいので、図書館という言い方をしたんだけど、要するに、1部屋というレベルではなく、少なくとも会社などの図書室規模のスペースと、図書館もしくは書店勤務経験者の方1人に系統的整理をしてもらいたいというのがオレの願いです。
 特に、オレの買う本というのは、聞いている音楽同様、「これが何で1人によって選ばれたバリエーションなんや?」と言われるほど、無差別級なのは、ご存知の方も多いと思うので、そういう意味でも、系統立てて保管してもらう必要があるのです。
 仕事をしている時、何かを読んでいる時に、「あ、これに関連する事、@@という本に書いてあったなぁ」と思っても、今の状態だと、目的の本を見つけるのは、情けない事に徳川埋蔵金発掘並みの大変さなのです。
 というわけで、どなたか趣旨に賛同していただき、基金を用意していただく方がいらっしゃいましたら、是非ご一報を!?
 ご厚意に感謝して、そのトワイライト図書資料室の入り口には、アナタの胸像をご用意するのは間違いありません!
 ただし、その胸像製作費用分の資金もお願いしますm(_ _)m。。なーんて。

{管制官、誤誘導事件}
 世間一般的には、18人もいて、なんで誰も気付かなかったんじゃ!とお感じの方も多いでしょうね。
 ところが18人体制と言っても、担当する分野が異なっていて、グラウンド、タワー、アプローチ、デパーチャー、クリアランス等、別の仕事をしている人が大半ではあるものの、最も連携がありそうなアプローチ(飛行場の周辺空域から滑走路への着陸進入を担当)とタワー(最終進入〜着陸、滑走路から誘導路へ出るまでと、離陸機が離陸してデパーチャーへ引き継ぐまで)がちゃんと連携していなかった事や、事前のミーティングの時に今日の特記項目として確認されていなかったのは、やはりいただけない話です。
 何度も「本当にA滑走路(ランウェイ34L)で良いか」確認したけど、その度に「A滑走路で良い」と指示されたという報道になっていて、単なる事実だけを明示すればそのとおりだろうと思う。
 でも、今回と同じニュアンスでトラブルが生じるケースは、実はどこにでも潜んでいて、例えば、ウチが取引先に商品の発注をした場合、取引先から「5月5日に出荷で、翌日到着です」という回答が返って来たとします。
 すると、年中”曜日ボケ”のオレが珍しく5月5日は祝日だと言う事に気付いて、「ホントに5日に出荷なの?」と聞きなおしているようなものなのです。
 もう聡明な皆さんにはお解りだと思うけど、こちらは祝日に出荷できるの?と聞いているのに、先方は、祝日と言う事に気付いていないという可能性が高く、祝日という概念が無い相手に「ホントに5日に出荷なの?」なんて聞いても、疑問を持っている側の本当の意味での再確認にはなっていないのです。
 だから「ホントに5日に出荷なの?」なんて聞くのではなく「5日って祝日だけど、アンタのところは出荷があると言う事は悲しい事に出勤かい?」と聞かないといけないわけで、羽田の場合も、機長(ホントに機長が無線を担当してたのかな?)は「本当にA滑走路で良いか」なんて聞かずに、「A滑走路は、ノータム(という名前だったと思う・・・そういう臨時情報などを掲載した情報)では21:30から閉鎖になっているはずだけど、何で着陸させるのか?」と聞かなければ、パイロットとしての疑問を解決する質問になっていないのです。
 こういうすれ違いで失敗に至るのは、仕事や勉強、はたまた男女関係まで、枚挙にいとまも無いはずなので、皆さんも、その点、よーく考えながらコミュニケーションを取られる事をオススメします。

 ちなみに、管制官とパイロットの交信は、英語の定型文が基本なので、こういう「ド忘れ」的ミスを思い出させるのは難しいという背景があるんだけど、ちゃんと管制の教本にも「母国語、もしくは英語」と書かれているので、そういう時には、日本語に切り替えて確認すれば良いだけだから、「アクティブランウェイ34Lコレクト?」なんで確認せずに「ブレーク(英語を中断する際の用語)、わしゃ〜ノータム見た時に、ランウェイ34レフトは、夜工事しょ〜ると聞いたんじゃが、何でワシの飛行機を、その工事中の滑走路に着陸させるんかいのう?」と広島弁モロ出しで聞いて欲しいものです。
 それが、パイロットの疑念を晴らす事ができ、パイロットの勤めを立派に果たせる聞き方ですから。
 ただ、広島弁だと、意味がわからんという話もありそうなので、一応標準語でお願いします。
 でも、工事が始まってなくて、ホントに良かった。
5月6日
 まだドップリと連休に浸かっている方、ため息をつきながら仕事を始められた方、それぞれの6日だと思うけど、広島は、連休中の夏を思わせる日和からガラッと変わって1日中雨でした。
 オレは、おかげ様で、連休明けからの注文、作業、車検などのご依頼を連休中に色々いただいたので、休み明け早々に気合いを入れて頑張れそうです。

{環境整備計画結果}
 2日に持ち込んだ本棚は、アッサリと一杯になったものの、山脈のような未整理本は、まだ大量に残っていて、「こりゃ、もう1つ、同じ本棚を購入するしかないなぁ」と決心して買いに行ったら売り切れでした(涙)
 というわけで、せっかく久々にノッてきた整理整頓熱は、サクッと下がってしまっただけでなく、中途半端にしか片付いていないという結果も出ていない状態なのは実に残念で、何もしなかったけどノンビリできたか、大変だったけど、満足できる片づき方でもないという悲しい状態です。
 一応、売り切れになっていた本棚が、再度入荷したら購入して、環境整備続編を実行したいとは願いつつも、こればっかりは天気予報よりも微妙かも知れません(反省!)

{スピードアップの是非報道に似た問題}
 色々な事が明るみになって、ある意味、JR西日本は袋叩きの状態になっていますね。
 もちろん、批判される部分を批判されるのは当然だし、鉄道のような経験工学的な装置産業の側面を持つ事業は、それを教訓にする必要があるので、真摯に受け止めるべきだと考えています。
 ただ、報道のあり方に、かなり行き過ぎな点とか、検証不足な点があったりして、視聴者に勘違いや思い込みを誘発させている事については、もっと考えるべきであると常々オレが思っているのは、日誌をお読みの方であれば、過去数年間の日誌から理解していただいていると思うのです。
 一部には、スピードアップ、定時遵守自体が罪悪のような言い方をされているけど、これも安全性の担保無しのスピードアップは認められないものの、スピードアップそのものを否定したのでは意味が無いのは言うまでもありません。
 ただ、そのスピードアップをする事が、ややもすると罪悪であるような報道をしている報道機関であればあるほど、客観的検証を為されていないままのスクープを乱発している傾向があるのは、オレが見ていても、今回の本質を本当にその報道機関が学び取っているのだろうかという疑問ばかり出てきます。

 社会の要請として、その会社の仕事のクォリティの1つの表れとして、鉄道のスピードアップも、報道機関の素早いスクープも存在していると思うし、どちらも努力義務として大変必要な事だと思っているんだけど、安全の担保が無いスピードアップ同様、ウラをしっかりと取っていないスクープも大問題で、詳しく調べてみれば、そこまで批判されるほどの事をしていない人を、まるで極悪人のように扱って、多くの視聴者にそういう認識を植え付けてしまう危険があり、その誤解や思い込みによって、今回に限らず人生を狂わされる人が存在する事をもっと踏まえて取材と報道をしてほしいと考えています。(報道は錦の御旗では無く、あくまでも一般視聴者に真実の理解を深める事が最も大切な事だと思っています)
 いわゆる、専門的知識を持たない人の視点を否定する必要は無いと思うし、その視点から何が疑問なのかというアプローチも大切だけど、それによる誤解や、視聴者の問題意識としての優先順位の序列に乗っかって煽るような報道は、ある意味偏向報道と言われても否定できないはずだと思うのです。

 1つだけ例を挙げてみると、2日前から天王寺のボウリング大会が批判を集めているのは皆さんもご存知だと思う。
 ある意味、人の心(特に被害者とその家族)を逆撫でするような面もあるので、社内連絡の内容が不徹底で、誤解をしていた一面があるとは言え、批判自体を否定する必要は無いとオレも思うんだけど、事故の当日から不思議に感じているのは、事故の電車に乗務していた車掌が、事故を未然に防ぐべき運転業務を扱う車掌(電車を運転するという意味ではなく車掌として電車の運行や保安業務を担当している事)としての仕事(予防措置)を不十分にしか行っていないだけでなく、事故発生時に必ず実施しなければならない、事故拡大防止措置(4/26日誌にも触れています)を実施したと思えない事が、さほどというより、ほとんど報道されていない事なのです。

 ボウリングが誉められる事ではないのは、誰しも考える事だと思うし、オレも同感だけど、それをここまで大々的に批判するのであれば、乗務していた車掌による事故拡大防止措置が取られてなかった事(もしくは、機構的に実施してもその効果が出ない状況であれば、電話中だった車掌から指令への要請があったかどうか、指令側の手順はどうであったかなど)を、さらに大きく取り上げないと、少なくともこの2点だけで比較しても、公正中立で真実を報道する事にはならないはずなのに、それが全くと言っていいほどされていないのは、報道のプロであるはずなのに、専門的に詳しくない視聴者の視点に乗っかって迎合しているだけと言われても仕方が無いような姿勢と言うしかないと思えるのは、とても残念な事だと感じるのです。
 報道機関というのは、鉄道と並んで、無くてはならない存在だと思うし、その機関に対する信頼を、オレ自身も期待しているので、以上の点を是非、真摯に受け止めていただき、本当の意味で、視聴率競争のための報道ではなく、本質的な意味での公正な報道をしてもらいたいと願っています。

 ちなみに、そのスピードアップの手法や具体的にどの程度のスピードアップを行っているのかという定量的なモノサシは、かなり間違った尺度を基準として採用してありました。
5月8日
{道路の緩和曲線}
 鉄道の緩和曲線は、元々専門的な用語だったものが、ライブドア騒動の時のTOBなどのように、それまでだと逆立ちしても知らないだろうと思うような方まで知ってしまったけど、車の道路はどうなのか?という質問があったので、少しウチの本業の車編として触れます。
 昔に作られた道路はともかく、比較的新しい道路の場合、用地買収的な問題が無ければという前提で言えば、実は緩和曲線のようなものがあるのです。
 これは、鉄道の緩和曲線とは目的が少し異なっていて、長いカーブの半径をカーブの最初から最期まで同じ半径にしないために用いられているのです。
 「何でそんな難しい事をするの?カーブの間中、同じ半径のほうがラクだと思うのに」と感じられる方も少なくないと思うんだけど、実は、同じ曲率半径のカーブをキレイに走り抜けるというのは意外と難しいのです。
 これは、ジムカーナやスポーツ走行の基本手技として、試してみてもらうとわかるんだけど、慣れていないと、常にラインに合わせるように修整し続けないと同じカーブを描く事ができないのです。
 ところが、最初緩めのカーブなのに、クリッピングポイント辺りに近づくに従って、徐々に半径が小さくなる道路だと、ステアリングを切り足す修整だけですむので、一般的にはラインに合わせた修整がラクなのです。
 その最もきつくなるクリッピングポイントを過ぎれば、その逆になっているので、今度はステアリングを直進方向に修整するだけで済むので、実はこのような細やかな配慮をした曲線設計になっているので、皆さんの周りの道路の半径の変化もちょっとチェックしてみてください。

{某専門家 続編}
 さすがに、のぞみ登場時から、いつでも「原因はコレ」というワンパターンの金太郎飴的持論は撤回しているようだけど、昨日新たに事故調査委員会が発表した1両目のヨーダンパーの損傷写真についてのコメントでも、思いっきり非専門家ぶりを発揮してくれています。
 元々、あのヨーダンパーの損傷写真は、事故前にそういう状況になっているという証拠写真でも何でもないんだけど、仮に事前に損傷していたとした場合でも、ヨーダンパーがどのような目的で設置されているのか間違ってはいけません。
 特に、単なる言い間違いみたいな話をオレは指摘しているんではなくて、なんで「ヨーダンパー」という名称が付いているのかという事が根本的にわかっていないとしか思えない解説だったのです。
 この人、ホントにエンジニアを自称しているんだろうかと思わずにいられないんだけど、「ヨーダンパー」の”ヨー”って3軸の動きのロール、ピッチ、ヨーのヨーなんだけど、どうもこの方は、脱線防止ガードやATC、ATO等と共に、根本的にわかっていないどころか、考えた事も無さそうです。
 日誌読者の方の中には、1人だけ、この方が誰か気付いた方がいらっしゃったみたいだけど、JR西日本の本当の責任、鉄道全体の抱える問題の把握のためにも、皆さんも、この方の解説には注意してみてください。
5月11日 チーム大ジョッキ!
 朝5時半から行動するのが恒例になっている最近の水曜日。
 まだ薄暗いうちからメールの対応や商品の発注を済ませて、午前中はアウトローのオレ唯一のお上の仕事(厚生労働省委託講義)と格闘し、昼飯の後、その講座の修了生が仕事についたカフェで時間調整です。
 このIさん、講座が終了しても、仕事に就いたという近況報告をしてくれたので、先日も1度立ち寄ったんだけど、今日もとても喜んでくれたのは、オレとしても元気に頑張っている姿も見れて喜んでもらえるわけだから、まさに「2倍!2倍!(古!)」の嬉しさです。
 ちなみに、何で時間調整したかというと、デートのための調整とは全く違って、東京からの来客を広島駅に迎えに行くための時間調整なんだけど、東京から誰が何の為に広島に来られるかというと、なんと、日本最速の法律家(ただし本業は法律業務ではありません)のブースカさんが、今回の事故の勉強や研究のために、わざわざ片道900km遠征して来られるのです。
 仕事のための勉強を、会社のシステムで実施するのか、個人の努力に期待されているのかというのは、是非はともかく、業界によって大きく異なるのは皆さん自身で実感されていると思うのです。
 オレ達の自動車業界は、一般的には会社による養成が一般的だし、ブースカさんのように鉄道業界も同様なんだけど、それ以上の勉強と努力をするために、往復の旅費だけでも相当な費用を払ってまで、自らの能力やモノの見方を向上させるために努力する人も珍しく、それだけでなく、実際の安全というカタチとしては意外と捉えがたいモノを確実なものにするためには、どのような局面でどのような判断が必要なのか、最近言われている心理学は言うに及ばず、様々な視点で一緒に勉強したのです。
 また、最近問題視されている各社ごとの車両構造の違いについても、元々ブースカさんが疑問に感じておられたポイントを、オレがもっと違う背景などを付加しながら補足して、「なぜ、E社ではそれが可能で、W社では、こういう方法を採っているのか」などについても意見交換でき、マスプロダクションなど全く違った認識も持ってもらえたのは、ホントに良かったと思ったのです。
 特に感じる事は、自由に意見を言える環境の重要さで、「異論を挟んでも、それが理由で左遷されるような事がない」という環境の作り方も紹介したんだけど、いくら前向きに社内で会議をしても、こういう保証なくしては、真の問題点を議論する事なんてできないし、議論がそれまでの矛盾や落とし穴を埋める事にならなくなるのです。

 この事故の件とは別件だけど、「(みんなが望む)結果のためにできた概念」を前提に、それまでの縦割り分野だったものを、近年対応目的を優先にした組織に組替えている、ある分野についても、オレはその根本的な問題点を見つけていて、それを改善するためには「〜という点を充実させるしかない」と常日頃関係者にもコメントしているものの、その業界は、古くからの因習にとらわれている業界のせいか、話をしても、関係者が腰の引けたような対応になっているし、命を守るという意味でも、最も重要な新しい概念に関わる際に、旧体制側の人達から見える光景を気にして、せっかく理解を示しながら踏み込もうとしない人にもがっかりしている最中なんだけど、ブースカさんは、そういう意味でも、腰の引けてなく、自分の向かうべき目的に対して、妥協を許さない強さを感じています。

 だからこそ、自分の本来の仕事でもなく、金儲けでもないけど、ブースカさんのリクエストに応え、時間を確保する事は、全く苦痛ではないし、楽しみでもあるのです。
 ちなみに、ブースカさんも酒には強いので、そういう意味でも楽しみなのです。
 なんと言っても、今時大ジョッキ連発というテーブルは、あまり見かけないはずです(笑)・・・・オレも 
5月17日
 毎年5月の恒例行事になっているパイオニアの新製品発表会に、昨日行ってきました。
 ここ5年、岡山での開催で、広島の地盤沈下の悲哀を感じつつ、旅費は先方持ちなので、実は喜んで岡山に出かけているというのが正直者としてのコメントです。
 今回のHDDナビの新製品の概容は、ものぐさな人間のオレとしては珍しく、今日速攻でHPにアップしたので見ていただければと思うんだけど、ようやくパソコンでのバージョンアップが可能になりました(費用もそのほうが安く設定されるようです)
 ちなみに、ブロードバンド環境が必要で、速度3Mで10時間程度だそうです(爆)
 ということは・・・と、すぐに確認したがるのはオレの悪いクセだけど、世間では比較的多い実効1Mレベルだと30時間まではかからないものの、やはりかなりの時間がかかるそうです。(その代わり、10Mなどではそれなりに早いそうです)
 となると気になるのは、オレも先日までお仲間だったISDNやアナログの通常のダイヤルアップで接続自体はできるのか聞いて見ると、「技術的には可能」だそうです。
 ただし、所要時間は恐ろしい気がしますね!
 もう1つパソコン関連で紹介すると、パソコン内のMP3,WMAファイルを、ナビのHDDにカンタンにコピーできるので、今までのモデルでたまに生じていたケースとして、レンタルCDを借りたけど、車に乗る機会が無かったのに返却期限が近づいたので、無理してCDを演奏しながら無意味に車で走り回っているなんて、ガソリン代高騰の今では、心臓に悪い事はしなくても済みそうです。

{新手の取締り登場?}
 その会場から出て間もなくの事、派出所の表のパトカーの陰に2人の警察官が座って談笑しているのです。
 停止の棒を持っている事から容易に検問などを想定できたんだけど、予想通り、突如談笑を中断して立ち上がり、車に停止を命じたのです。
 もちろんシートベルトや携帯電話の違反の検挙だと想像できるんだけど、その様子から座っているところに指示を受令用のスピーカーがあるとして、どこに違反を現認する警察官がいるのかを走りながらチェックしたのです。
 多くの場合は、100m手前の辺に警察官を配置して、無線機で違反車両を伝えているんだけど、制服で突っ立っていると、事前にベルトをしたり携帯を手放すドライバーの防御を防止するため、私服だったり冬だと制服の上に、私服のジャンパーを着込んでいる事が多く、また電柱の影から様子をうかがっていたり(コレ自体を見ると、アヤシイ人のように見えます)、最も爆笑したのは、橋の上で、椅子に座り、釣りざおまで用意して釣り人のルックスで道路を監視しているシーンも見たことがあるのです(ただし、インカムを付けているので、一発でわかったんだけど・・)
 ところが、今日の取り締まりは、何と女性警察官が私服でバス停で道路を見ているのです。
 しかも、その私服は、よく「〜警察24時」みたいな番組で、踏み込む際の女性刑事のような格好ではなく、春モノのスカートなどを着ていたので、「こりゃ絶対に、見てわからんなぁ」という感じでした。(恐るべし岡山県警!)
 というワケで皆さんもご注意ください。(そういう取り締まりに注意するのではなく、安全運転をできるようにという意味ですよ)

{凄さに感服}
 世の中には、その凄さを、なかなか理解してもらえない仕事も多いものです。
 昨日の新製品発表会では、コンパニオンに感心(関心を持ったのではありません・・・笑)してしまったのです。
 というのも、最初の進行の挨拶は、最近よく使われるアクリル板みたいなヤツにセリフが表示される機器が置いてあるところで説明していたので何とも思わなかったんだけど、その後のナビの詳細の説明時には、かなり長文のいくつもの説明を「立て板に水」の如く説明し続けたんだけど、その時に思ったのは、インカムが送受信可能なヤツで、耳に事前に録音した内容が流れているのかと考えて、後のスクリーンに振り返った時にチェックすると、両耳とも塞がっていない構造でした。
 当然、すべて暗記しているという事だけど、あんな業界用語満載の文章を、よく間違いなくサラッと話せるもんだなぁと、まさに恐れ入った心境で、きっとあの2人は、楽勝で舞台女優になってもセリフ丸暗記できる事でしょう。
 でも覚えるには、相当時間が必要だと思うけど、色々な意味で、彼女達は1社との専属契約なんでしょうか?
 知っている方はお知らせください。
 ちなみに、他の出席者のコメントは、推して知るべし「キレイだったなぁ」だったそうです(爆)
5月24日
{NO GOの決断・・その3かな?}
 以前から、この日誌を読んでいただいている方であれば、オレがプロだからこそ「GO」しない決断も必要だと言っている事をご存知だと思うのです。
 これは言い換えれば、GOしない勇気とも言えるもので、色々な周りの”しがらみ”や、思惑ばかりに気を取られ、肝心の判断基準がおろそかになる危険は、悲しい事に現代社会では、決して珍しい環境とは言えないのは、皆さんも実感していると思うのです。
 スペースシャトルの打ち上げ時の危険性がわかっていた(Oリングの損傷)低温時に、すでにスケジュール変更を繰り返しているので、これ以上計画を遅らせる事ができないという政治的?な理由で打ち上げて事故に至ったケースなどを日誌でも紹介しているけど、そういう配慮を行っていても、人間にはミスがつきもので、4月21日のロック岩崎さんの墜落事故なども起きてしまうのです。
 この岩崎さんは、昔から、やはり日誌でオレが書いているように「プロは危険を冒さない」(ただし、技術を磨く事で、危険ではない状況を事前に作る)と同じ意見である「プロだから、危険な領域に入らない」という事を徹底されていたのに、事故は起きてしまうものなのです。
 だからこそ、日頃の技術向上とは別扱いで、しがらみがあっても「NO GO」を決断するのがプロとして大切な事だと、いつも考えているんだけど、この日誌でも何度も取り上げた尼崎事故でも、同じプロとして本物の気迫を感じる事があったので、ちょっと紹介します。

 あの事故の影響は実に大きかったし、それだけシッカリと取組む必然性もある事故なのは、オレも同じ認識なんだけど、不勉強のまま番組を構成し、根拠に基づかない憶測どころか、全くの勉強不足で誤ったコメントを繰り返している専門家がたくさんいた中で、当初から「あぁ、やはりこの方は、ちゃんとした視点で、ちゃんとした手順を踏んでコメントされているな」と感じていた方(本当は実名で紹介したいほど、ちゃんとした姿勢を堅持されている方です)が、実は初期の番組出演時に、放送局が用意していた内容が、その時点でも誤った内容だとわかっていたので、出演するに際し、その部分の修正を求められたそうなのです。
 放送までの時間も押している事、世間(他局)がそういう方向で報道している事もあって、そのまま放送したがっていたスタッフに「今回のように多くの方々が注目している大事故の報道については、たとえ細かい問題であっても、明らかに間違った内容を放映する事は、私だけでなく、@@@(放送局名)の信用にも関わりますよ」と、間違った部分の修正なしには応じない事を表明されていたそうなのです。(先日、某誌に手記を書かれた事と、もう1つのルートでもオレは知りました)
 これこそ、NO GOの決断の趣旨に沿ったものだし、この方は、自分のプロとしての本当のプライドを守るだけでなく、ちゃんと報道内容を評価できる視聴者から、その放送局の信用を守ったと言っても過言ではないのです。
 決して大風呂敷を広げないのに、こういう点をとても大切にされている、本物のプロの凄さを感じさせてもらいました。
 オレと似た境遇(ただし、この方のほうが数段困難な内容)の教育も担当されている方でもあるので、なおさら、その姿勢には頭が下がります。

 ちなみに、あくまでも個人的な推測をここで書くのを許してもらうとすれば、事故に至る直接的原因(力学的原因)はオーバースピードなのは衆目の一致するところだと思うけど、その日の朝の回送列車の運転時からおかしな挙動を続けざまに繰り返しているという経緯を細かく分析してみると、20数年前の大事故(航空事故です)のパイロットの環境に非常に酷似した挙動がたくさんあると感じています。
 現時点では、会社のプレッシャーが背景にあり、それが正常な判断力を失わせたという方向で調査が進んでいるようだけど、それでは、細かなそれぞれの事象の説明がつけにくい点があり、そういう意味でも、オレの想像する航空事故のパイロットと同じ問題を抱えていた可能性が強い気がしています。
5月30日
 車検引取りというのは、WEBショップという一面では、とても日常的な仕事とは思えないというのが普通の見え方だと思うけど、実は結構日常的な仕事なんだけど、今日の引き取りは下関です。
 お客さんは、以前広島在住だったものの、仕事の都合で九州に転居され、その時に「新枝さん、車検の時はホントにお願いしますよ」と言われていたんだけど、正直「まさか・・・」とは思っていたものの、どっかの国の政治家と違って、ホントに車検の依頼をいただきました。
 そこで、お客さんのOさんは、どこか適当な中間地点で待ち合わせをするという方法で検討してもらっていたんだけど、とりあえず引き取りの際は、前後の都合も考えて、大幅に北九州に近い下関で待ち合わせて預かる事になったのです。(その代わり、納車の時には、ググッと広島寄りで待ち合わせです!?)
 ちなみに、このOさんとのきっかけだけど、オレの在籍していた自動車ディーラー時代からのお客さんでもあるんだけど、実は、最初に車を買ってもらったワケでもなく、カー用品を販売したのがきっかけでもなく、何とバイクのメンテをしたのが最初の仕事だったのです。
 最近でこそ、他銘柄の車の車検くらいは、当たり前に入庫しているディーラーだけど、当時の感覚で言うと、他の銘柄が通常のメンテに入庫する事自体も珍しく、ましてやバイクから始まっただなんて、まさに「ありえない」事なんだけど、その”ありえない内容”は、今度は車検を引き取るエリアになったわけです。
 ディーラー時代の個人的な遠距離車検依頼レコードは、福岡市だったんだけど、これで独立後の最も遠い車検依頼は北九州市になりました・・(これまでは下関)
5月31日
 昨日は西に、今日は東です。
 先月、念願の中古車を何とかゲットして、とても喜んでいたチーム1リットルのMちゃんの車が、オーバーヒートでダウンしてしまったのです。
 元々現状渡し前提で自動車購入をしていたので、「買ったところで直してもらう」という作戦で無料にはならないので、ウチの出番になったワケなんだけど、オーバーヒートなので、当然自走できるわけはなく、セイフティーローダーを運転して取りに行ったんだけど、やっぱりローダーへの搭載作業を見ると、「おぉ!」と思うそうです。。
 でも、会社の特殊部隊と呼ばれていたオレとしては、ローダー運転・搭載ぐらいは、これまた日常的な仕事なんだけど、そこで思い出したネタがあるので紹介します。

 このネタは、もしかすると、すでに過去の日誌に書いた可能性も高いんだけど、ディーラー時代、なぜかウチのディーラーでは機械オンチ?が多く(シャレになりませんが)、車を扱っていて、お客さんの車を納車・引き取りするのはいつもの事ながら、ローダーを運転できる営業マンがおらず、何かあると、オレを含めたごく少数のメンバーに声がかかって、本来のオレの仕事ではない仕事が、いつもどどーんと増やされていたのです。
 その時に、いつも「ローダーなんて、普通免許で運転できるんだから、ちょっと練習すれば大丈夫なので、乗れるようになったら?」と言っていたものの、「あんなバカでかいもの、オレの免許は許可されていない」などと、どこの国で免許を取ったんかい!と言いたくなるような言い訳を、先輩も後輩も繰り返していたのです。
 そんなある日、中古で販売した車が、高速道路上でパワートレイン系から出火し、サービスエリアで消火した車を、(ローダーで)取りに行ったんだけど、その火災は、構造的問題(メーカーの設計上の問題じゃないかという意味)だと、当時の責任者が騒ぎ出して、結局その煽りを食った、某自動車メーカー系のディーラーが車両を取りに来る事になったのです。
 取りに来たのは、さすがにヒールは履いていなかったけど、女のコの営業で、その時に対応した先輩が、取りに来た事を告げられて「でも、自走できませんよ」と告げていたのです。
 要するに、その先輩は、「女のコ=ローダーは運転できない」という前提があったから、そういうコメントが先に出てきたんだけど、そういう先輩の切なる願い(笑)を裏切って、そのコはローダーで登場していて、当然のようにサクッと搭載して、ローダーを運転して帰っていったのです。
 その時の先輩の最初の言葉が、やはり「おぉ!」だった・・・・
 次の言葉ですか? 「オレより使い物になる営業じゃん」でした。
 さすがに、「だいたいアンタより使い物にならない営業なんていないでしょ!?」なんてコメントはしなかったんだけど、この人は、最期までローダーは使いませんでした。
 というわけで、実はローダーの操作・運転なんて、大した事ないんだけど、何かの縁で、皆さんのところにローダーで車を取りに行く機会があれば、「おぉ!」と感心してくださいね。

{その往時の出来事}
 ウチの近くの某メーカー系(さっきのメーカーではなく、もっとビックなメーカー系です)のディーラーが、先月営業所を立て替えたのです。
 そこは、元々非常に使い勝手が悪い構造だったので、通過しながら見る範囲では、以前の構造的問題は、かなり改善されているように思えるので、きっと働きやすくなっただろうと思っていたんだけど、信号待ちの渋滞で、何気なく玄関前のホワイトボードを見ると、その日の入庫車両のお客さんの名前、車種、区分、担当者などが書かれていたものを発見!
 それって、外に向けて知らせるモノじゃ無いでしょう?
 個人情報保護法に過剰反応して、「法律は、そんな事を求めて無いでぇ!」というような過剰防衛をしている会社も多い反面、公表する意味も無い、こんな情報をわざわざ外側に向けて公表しているところもあるのはホントにビックリでした。
6月2日
{ウチの店の付加価値?}
 4月に車を買ったXちゃん、何と購入した自動車販売店から「今年度の軽自動車税を支払って欲しい」という連絡があったらしく、「これって、私が払わないといけないモノなの?」と連絡してきたのです。
 普段、少々の事ではビックリしない鈍感男のオレだけど、さすがにこれにはビックリしたのです。
 実は、先月車を購入する時点で、すでに伏線があったので、「やっぱりこういう事がまかり通っているんかぁ」と改めて自動車業界のデタラメさぶりに落胆せざるを得なかったのです。
 というのも、4月に車を購入する検討をしていたXちゃんに相談された「見積書」の明細に、軽自動車税が計上されていたのです。
 実は、軽自動車税という税金は、毎年4月1日時点の所有者(もしくは使用者)に課税される税金で、それ以外のタイミングで課税する事が無いという自動車税とは少し違った税金なのです。
 と言う事は、超鈍感なオレと違って聡明な皆さんであればお気づきになると思うんだけど、4月1日の登録車に課税されて、地方自治体から直接納付書が送られるために、車を買う際に自動車販売店の注文書に軽自動車税が計上されることが無いのです。
 ましてや、4月2日以降に登録されたユーザーには、来年の3月末までは軽自動車税はかかっていないので、4月2日に登録し3月31日に抹消すると、ほぼ1年間税金タダという状態になるのです。
 そういう事情なんだけど、その見積もりには「軽自動車税7,200円」と書かれていたわけです。
 というわけで、これだけを見れば法律的には「明らかな詐欺」に該当します。

 ところが、実情を考えると、多少やむを得ない点もあって、その車は、元々下取り車として入庫したものを継続車検を実施して、販売店の代車に使用するつもりだったのを、Xちゃんの知り合いの依頼で、販売店はXちゃんに販売する事になったんだけど、代車として2年間使用する間の事を考えて、部品交換なども少し多めにしていたという経緯があって、それを販売する時には「お金かけすぎたから、少し高く売りたい」という思惑があってもやむを得ないし、車を探してもらう時の条件として、総額の上限が最初に決まっていて、それならば代車に使うつもりだったコレはどう?という話になっていたらしいのです。
 こういう場合の見積もりというか明細は、総額からの逆算で車両本体価格が決まるようなもので、総額と車両自体に不満が無かった場合、法律的妥当性はともかく、明細の中身は、ある意味どうでも良いことだし、元々O円で仕入れしていると思える車であっても、リサイクル料金も含めて支払って車検を行った直後でもあるので、そこそこの状態で2年つきの総額としては、「まぁそんなもん」という金額だったし、知人の紹介なんだから、車と総額に満足できるなら知人の顔を潰してまで、細かな表現までは言及しなくてもいいんじゃないの?と、アドバイスしていたのです。
 そして、その販売店からさらに「今年度の税金支払って」という連絡があったものだから、相手が知らないと思って、そこまでするならガツンと対応してやるしかないなぁと思い、細かな点をXちゃんに説明したのです。

 まず、4月中旬に契約し登録した場合、翌年3月31日までは軽自動車税の納税の義務が生じない事、そのため今回の場合、4月1日に登録されている所有者(もしくは使用者)に今年度の納税の義務が生じるので、前の所有者が手放す時期が4月1日以降だったのであれば、前の所有者(もしくは使用者・・・以下、”前の所有者”に略します)は支払うべきものであること。
 また、3月中に前の所有者が手放していて、販売店で抹消しなかったままにされていて、4月2日以降に代車で使用するために車検と販売店名義への名変を実施していたのであれば、法律的には前の所有者が支払う義務があるし、3月末までに抹消もしくは名変をする約束を、販売店が前の所有者にしていたのであれば、法律的には前の所有者が支払うべき事ではあっても、販売店が払うべきだという事。
 さらに、新しい所有者になったXちゃんへ販売する際に、代車目的として十分な整備を実施した費用分を、少しでも回収しておきたいという気持ちはわかる(代車使用目的の場合はシッカリ整備するくせに、車検受け渡しの時に、車検整備費用をもらっている時には、最小限の部品交換に押さえるという考え方も問題アリだとは思う)けど、その場合は、注文書に軽自動車税として記載すると詐欺に該当するので、車両本体価格にその分転嫁するべきだし、百歩譲って、車両本体価格を低く押さえたいと思った場合の自動車業界的方法の「軽自動車税未経過相当額」という見えない価値を付加価値(オプション部品のような扱い)として計上するべきで、その際には、税金の預かり費用ではないので、消費税も加算される事。
 そういう内容を説明したのです。
 そして、これを十分に理解して、販売店に説明できなかったり、販売店が「シロートの小娘」だと思って、さらに言いくるめようとした場合に、見せるようにA4で2枚に渡った法律的解釈や違反行為が商法の契約不履行や刑法の詐欺に該当する事を書いて渡してあげたのです。
 説明を聞いて、その文章を見たXちゃんは「おぉ!」と目を大きくして感動していたんだけど、「どうしても販売店がワケのわからない事を言いつづけたら助けてね」というので、もちろんOKを出しておきました。
 ある意味、販売店がどういう態度に出るか、Xちゃんとも話したんだけど、ちょっと楽しみです。

 オレは、学校や各種講座などで「商品本体価格だけではなく、付加価値を含めて含めて、どのように価格体系を検討するか、そして、そのお店を利用してもらう際の付加価値は何かという事も大切に考える必要がある」と具体的に色々な事例を挙げて紹介しているんだけど、いつも利用してもらっている方には、こういう部分の相談も乗っているのは、もしかすると、見えないウチの付加価値なのかも知れません(かな?)。
 でも、この法律的相談部分を有料にすると、たちまち弁護士法違反に問われてオレが犯罪者になるため、この部分に限っては、もちろん無料だから、付加価値としてウチの利用者の方にしか提供できないわけです(笑)
6月11日
 一昨日は、色々な方から誕生日祝福メールをいただきありがとうございました。
 毎度のおなじみさんだけでなく、「久々じゃね〜!」と言う方や、ビックリする人からまでもいただいて、重ね重ねお礼を申し上げますm(_ _)m
 世間一般的には、誕生日が楽しいとは言えない年齢に差し掛かりつつある今日この頃だけど、個人的には何歳になった日というよりも、何度目のスタートラインかという感じで受け止めているので、正月よりも気持ちが引き締まる気がする記念日でもあるのです・・・・とカッコいい事を言いたいけれど、スパークリングワイン1本サクッと空けて爆睡でした(笑)

{コンプライアンスと法令遵守}
 最近よく耳にするキーワードとして「コンプライアンス」があると思うし、NHKをはじめ、多くの巨大企業でコンプライアンス推進の部門も設置されているので、皆さんも聞き及んだだけでなく、仕事の関係で何らかの関わりをお持ちの方もいらっしゃると思うのです。
 ところが、コンプライアンスというのは、法令遵守と同意語だと思われているフシがあるような気がするのは、オレだけなのでしょうか?
 企業にとって法令遵守を行うというのは、社会に対する当然の約束事であって、それを守らない事自体は、本当は論外なはずなのです。
 たしかに、世の中には、法令を守らない会社も少なくなく、それによって利用者だけでなく関係会社が被害を被る事も多いし、それが経営陣がわかっている上で行っているケースだけでなく、上層部には表面化しないまま末端で行われている場合も珍しく無いので、それまでの組織的な構図とは別に、直接その問題を提起できる部門ができる事自体は少なくとも前向きな事ではあると思っても良い気がします。
 ただ、法令を遵守していれば良いのかというと、実はそうとも言い切れなくて、あくまでも法令遵守は最低限の規準に過ぎなくて、利用者の視点に立った上で、法の趣旨などから言えば、どこまでさらに踏み込むのが良いかという姿勢を合わせて考えるのがコンプライアンスというものの考え方なんじゃないかというのが個人的な考えだし、最近の社会の流れとして、企業にそれを求めているように感じています。

 例えば、ネットに流出している、「犯罪によって生み出されている商品」の売買を例に挙げると、カード詐欺などで入手した商品を、詐欺による取得品であると説明せず(当たり前の話だけど)に、中古品などを扱う店に持ち込み、その店もしくは、その店がさらに転売した店で販売すると、販売店や買取店が詐欺で取得した商品であると知らなかった場合は、責任を追及されないのです。(民法で言う善意取得)
 と言う事は、単に仕入れ価格が安いからという理由で、仕入れ商品の経歴を知らずに、そういう商品を仕入れて販売したとしても、それは法令遵守という観点では合法なのです。
 しかし、なぜ詐欺や盗難によって取得されている商品と知りつつ買い取ったり仕入を行ってはいけないかというと、犯罪で取得しても、その再販ができなければ、犯罪を犯す意味が無いという犯罪抑止と、元々原価ゼロの商品と正規流通品を競争させない事で不正競争を防止しようという考えなんだから、例え仕入れ相手が「詐欺で取ってきた」と言わなくても、そのルートの違法性には関心を持っていないといけなくて、ちゃんとしたルートからの流通商品である事を立証できない商品には、むやみやたらと手を出さないようにするのがコンプライアンス的な考えになると思うのです。
 でも、「オレには関係ないし安ければそれで良いから」という判断をすれば、世間には益々犯罪が横行するし、その反対に「コンプライアンス」を尊重した判断をする人や会社が多くなれば、結果として治安も良くなるわけで、どこまで広い視野で判断できるかという点を、コンプライアンス的な発想では求められるワケなのです。
 今回のJR西日本の事故の場合も、実は法令遵守という見方で考えると、違法行為が非常に少ないものの、乗客の安全を守りつつ、利便性を向上して支持者を増やすべきかというコンプライアンス的な観点で言えば、問題が多かったという事になるので、長期的な見方をした場合、コンプライアンス的な視点で改善を進めていれば、今回の事故を防ぐ事ができただけでなく、企業価値の失墜を防ぐ事もできたはずなのです。(要は、コンプライアンスの推進におけるコストが、結果としてはムダにならないという考え方)
 よく信楽での正面衝突事故の教訓を活かしていないとマスコミが批判しているのは皆さんも耳にされていると思うけど、あの事故も法令的な観点で言うと、JR西日本側には責任が非常に少ないものの、民事で過失を認定されているのは、法令遵守的な観点ではなく、コンプライアンス的な考え方が前提になっていて、コンプライアンスという考え方がまだ定着していない当時としては、会社としては非常に厳しい判決であるものの、専門知識などを有していない弱者の観点に沿った、コンプライアンスに非常に踏み込んだ判決内容だと感じています。
 というワケで、「法令遵守していれば文句無いだろう!」と、ついつい考えてしまいがちな世の中だけど、皆さんもご自分の仕事や生活の中でのコンプライアンス的な考えは何か?という事も考えてみると面白いかも知れません。
 でも、6/2の日誌ネタのように、法令さえ遵守していないどころか、詐欺に近い対応が横行しているのは、ちょっと悲しい話ではありますよね。
6月12日
{ガードレール金属片事件}
 世の中、妙な意味で平和(なつもり)なんだなぁ〜と実感するのが、金属片事件を連日報道していたり、ピアノマンをトップニュースに何度も取り上げたりしている事なんだけど、金属片報道でオレはガードレールに挟まっている現物をたくさん見たワケじゃないので、何だと断定できるわけではないものの、例外を除いて自動車による接触が原因なのは、板金などで受け入れた似た事例などの経験的にも間違いないと思っています。

 しかし反論が多いのも事実で、例えば報道にもあるように、ガードレールは基本的に順目に接合されていて、向かって左側のガードレールの継ぎ目は、進行方向に向いている際には見えないような構造になっているのです。
 だから、接触による鉄板の剥がれであれば、すべてが対向車線にはみ出して右側に接触しているのかというと、その点の分析が非常に甘いように感じています。
 報道では、どうもガードレールに接触した時点で剥がれているという前提でナゾを究明しているようだけど、例外として狭い道で右側のレールに接触するケースや対向車線にはみ出して接触するケースはあるものの、ガードレールとの接触事故の大半は、やはり左側のガードレールとの接触接触と考えるのが自然なはずなのです。
 では、どうやって順目の継ぎ目でそういった事が発生するのかというと、浅い角度でぶつかった時の人間心理にあるのではないかと考えているのです。
 浅い角度で、ガードレールに接触したら、皆さんだったらどうしますか?
 アメリカ映画でみられるような毒舌のスラングを口走る事は少ないと思うので、一旦車から降りて接触部分を確認するかどうかはともかく、多くの方がガードレールと車を引き離す際に、バックしようとしませんか?
 それは、実際に意味があるかどうかは別として、前進して離れようと前進して離れようとすると、ハンドルを右に切って前進することになるんだけど、それによってさらに接触部分より後にもキズを入れてしまう可能性がある事と、人間に感覚として前進して失敗したものは、後退してリカバリーするほうが何となく安堵感があるはずなのです。
 問題は、そのバックする時なんだけど、すでに接触していてボディ表面も変形している場合、ガードレールに対して後退するときに、逆目になっている継ぎ目でベロッと剥がれるというのが状況を考えると実に自然な見方ではないかと思うのです。
 ついでに言うと、故意に取り付けたのが一般的なのかどうかを検証する1つの傍証的な確認方法として、36,000ヶ所とも言われている金属片が挟まっていた場所を調べた場合、車が直接接触する可能性の無い位置のガードレールにどれだけ金属片があったのかという点が、全然公表されていない事が判断し難い理由の1つになっているのです。
 というのは、地域や道路の規格によって異なるものの、ガードレールが車の走行車線に直接設置されている場合と、歩道を間に挟んで、歩道のさらに外側にガードレールが設置されている場合があり、歩道が設置されているのに、歩道の内側(車の走行車線側)に、ガードレールが設置されているケースもあるものの、この場合は、丸いパイプを組み合わせたガードレールを使用しているケースが意外と多いのです。
 それらを考えてみると、故意に挟むのが主因であれば、歩道のさらに外側に設置されているガードレールにも数多く挟んであって不思議は無いはずだし、そのほうが歩道という安全なスペースがあるので、そういう挟み込む作業を行いやすいので、こういう形状の道路でも数多く認められていたはずなのです。
 もし、そうではなく、直接車が接する部分のガードレールにだけ(もしくは圧倒的比率で)挟まっていたのであれば、やはり主因は車の接触と考えるべきなのです。
6月14日
 オレが改めて言うまでもなく、とうとう梅雨です。
 ネットショップには雪や台風でも来なければ天候は関係無いと思われるものの、ウチの場合、出張作業があるので、この時期は、ホントに天候マニアになりそうなくらいチェックと予測をして、どっかの首相と違って一喜一憂しているわけです(笑)
 さらに、講師として登場する際の交通手段は、(こういうシチュエーションでは)不幸な事に電車なので、そりゃもう前夜にテルテル坊主でも吊るしかねない勢いなのです。
 それはともかく、ちょっとここのところ、こ難しい話を結構書いていたので、頭のクールダウンにちょっとおバカなネタでも書いてみようと思う。(ホントはオレの頭がオーバーヒート寸前だったりして?)

{それは律儀か?}
 今日、常連のお客さんというか、もうかなり仲の良い友人状態のMクンを仕事の関係で、連れて行くところがあったので、助手席に乗せて走っていると、悲しい事に渋滞に巻き込まれたのです。
 だれでもそうだと勝手に決め付けているんだけど、渋滞を避けれるなら2倍くらいの大回りをしたほうがマシだと思っているオレも、1人じゃなくて、時間に制約が無ければあまり気にならないんだけど、ちょっとせっかち系のMクンが、「あ”〜〜イヤですねぇ」と言いながら、その辺を物色し始めたのです。
 Mクンにしてみれば、歩道をカワイイ女のコでも歩いていれば「渋滞大好き!?」(文字の後にハートマークを表示できないのが残念)という時間になるんだろうけど、残念な事に犬の散歩をしているオジさんだけ・・・
 そこで、前のトラックをジロジロ見ながら、書いてある内容を読み上げながら思いついた事をしゃべりはじめたのです。
 Mクンがナンバーや運送会社の名前に因縁を付けていると、突然「新枝さん、このトラックのネーミング、カッコ悪いですねぇ・・ビッグサンボだって・・・」とニヤニヤしながら、面白いモノを見つけたような表情で悦にいっているのです。
 「何?ビッグサンボ?ちびくろサンボの絵本は、この前再販されたけど、そんな名前はナイでぇ」と言いながらMクンの指差す先を見ると「Big Thumb25」と書いているのです。
 「あのねぇ・・・ありゃビッグサムって読むんだよ。ついでに言えば25は25トントラック」と、いつもの事ながらあきれながら説明すると
 「そりゃヘンでしょう。だって最後のBを読まないといけないじゃないですか」と、実に不満そうな顔なのです。
 ちなみに、このMクンは、過去にも犯歴?があって、爆撃機(BOMBER)の事を「ボンバー・ボンバー」と連呼していたのです。
 その時も「アホ!そりゃボマーじゃ」とチェックを入れたら同じセリフだったし、さらに「だって、ラジオのDJのボンバー@@という人がいるよ」というので、それは固有名詞?なんだからいいじゃんかというと、「おっかしいなぁ・・爆弾もボンブだと思っていたのに」と納得がいかない様子だったのです。
 「爆弾はね、ボムと読むんだよ・・・昔そういう(BOMB)名前のくだらん雑誌(関係者の皆さん、非礼な発言お許しくださいm(_ _)m)があったけど、内容はともかく発音だけは的確だったの!」というと、ようやく納得したようなんだけど、スペル全部を読もうというのは日本人の悲しい習性なのか、Mクンが律儀な正確なのか・・・未だもって判断できない新枝です。
 ちなみに、彼はその後にも、「キングコングのGは読むのに、香港のGはなんで発音しないのか。世の中難しい」と言ってました。
 憎めないMクンに救いの手を!
6月15日
 梅雨入り宣言した途端に晴れの日の連続の広島です。(どうなってんねん)
 今日の午前中は、厚生労働省主管の講座に登板だったのです。
 この講座は、講座の特性から3ヶ月クールの講座で、オレが登板するのは8回なんだけど、今日は4月からのクールの8回目(いわゆる最終回)で、これまで理解してもらった事を総動員して、それぞれの皆さんが着目したテーマを解析して発表してもらうのです。
 もし、この日誌の読者の中で、そういう研究発表やプランの評価などを担当される方がいらっしゃれば、よーく実感されていると思うけど、こちらで決めた内容について発表してもらうのは比較的カンタンなものの、発表される方が個々に見つけるテーマについてコメントや評価するのは、主観でコメントするのであれば別だけど、客観的なコメントをするには、意外と難しいものなのです。
 そういう場合の常套的な対処法としては、事前に発表内容を提出してもらってから、当日に発表されるものにコメントなどをするのが一般的で、オレも以前担当していた各種プランの査定と評価は、そういう方法を受け入れていたんだけど、この講座は日程の関係で、その分提出期限を早めると、非常に負担をかけてしまうという事情から、あえて事前提出を義務付けていないのです。

 こういう方法って、実際に発表されるその時まで、何がどのような視点で飛び出してくるかわからないから、発表中の短時間に要点とポイントをまとめてコメントしないといけないので、まさに出たトコ勝負(しかし真剣勝負)になり、毎回緊張と終了後には疲労感を味わる事になるのです。
 ましてや、コメントの内容が堅苦しい内容一辺倒になってもダメなので、真剣なコメントの中に、どうやってボケやオチを仕込むかというのもポイントなのです(オチと言っても橋下弁護士の解説でタレントに振るオチではありません・・・笑)
 今回も無事終了したものの、我ながら(出たトコ勝負の)「何でこんな(あくまでもオレの立場で、難しく非効率だという意味で)要領の悪い方法をやっているんだろう」と、毎回思うんだけど、色々な科目でも大変な思いの受講されている方に必要以上の負担はかけたくないですからねぇ。
 この講座に受講される方は、非常に皆さん熱心に聞いてもらえるし、講義中もキャッチボールのようにやりとりができるので、個人的にも楽しませてもらっているんだけど、1つ難点があるとすれば、期間が非常に短い事です。
 ようやく顔と名前も一致したり、それぞれの方のキャラクターを掴み始めた(完全把握している方もいるけど)タイミングに終わりというのは実に残念なんだけど、講義の終わりに触れたように、これからも遠慮なく連絡してもらって構わないと説明してるので、また近況を聞かせてもらえる方もいらっしゃるだろうと楽しみにしています。
 近況報告よりも、日誌のネタへの突っ込みが先に来たりして・・・・汗!
6月24日
 ここのところ、とても関心を寄せている分野があって、そういう関連の本を何冊も読み返しているのです。
 その分野というのは、寺社建築に関する事なんだけど、特に天平から中世にかけての建築の奥深さを実感しているのです。
 実は、オレの祖父は宮大工の棟梁だったんだけど、オレの生まれる前に他界してしまっていたので、写真でしか認識が無いものの、出生地には祖父の作った寺社も残っているのです。
 そういうオレの背景はともかく、ここしばらく中世までの寺社建築に触れるようになり、その技術や思想、姿勢の深さを実感したので、もっと長生きしてくれていて、今、語り合えたらと思わずにはいられないんだけど、ちょっとその深さの一端を皆さんにも紹介してみようと思います。

{驚愕の宮大工技術 その1.クギ}
 皆さんも、色々なそういう建築物を見た時に、「この建物は、クギを使用していない」などと説明され、クギを使わずにこんな巨大な建造物が維持できるなんて・・・とビックリされた経験をお持ちの方も少なくないと思うのです。
 しかし、全く鉄クギを使用していないかというと、実際には部分的に使用しているケースもあるものの、たしかに構造の重要な部分には使用されていない建物は少なくないのです。
 ただ、これに驚くというのは、実は先入観を持っているから驚いているのであり、その先入観とは「クギを使用するから強度が保てる」という前提が、多くの人に正しいと信じられているからクギを使用していない事が驚異的に感じるわけなのです。
 ところが、先ほども触れたように、構造の重要なところ(今の建築では、かならず金属物の補強の入るところ)にはクギを使用せず、木を組み合わ方を工夫して対処しているわけで、それで何百年どころか建物によっては千数百年も持ちこたえているのです。
 これについて、そういう建築物を修理する経験豊富な宮大工は、「元々、鉄と木は性質が全く異なるもので、それを組み合わせても、両者を活かす事にはならない」という見方をしているのです。
 柱を組み合わせている部分にクギや鉄板の補強を入れると、一見その部分の強度が向上するように感じるものの、その部分だけの強度が上がると、補強していない部分に無理がかかるし、想定以上の力が加わった際には、鉄板やクギはいともカンタンに破断してしまうので、支えようが無くなる。
 それよりは、面倒でも、木の組み方を工夫していく事で、色々なところがそれなりに揺れて、部分的に無理がかからないような作り方をしたほうが、想定以上の力がかかった時に、力を逃がしやすいと昔の工人も考えていたらしいのです。(この思想の極地として五重塔などの設計思想があるわけで、最近の高層建築も、その概念は取り入れられているのです)
 だから、クギが無くても強いのではなく、クギを使用しないから強いという思想なわけです。
 そして、その使用しているクギも現代のクギとは全く別物で、形状は和クギをご覧になった事がある方ならお解りだと思うけど、クサビのような形状をしていて、今の丸クギとは別物だし、もっと言うと、素材が全く違うようなのです。
 昔のクギは、炭をふいて時間をかけて鉄を溶かし、それを何度も鍛えて作っているんだけど、修理で1,000年前のクギを抜いても再使用できる場合が多いし、再使用できなくてももう1度溶かして鍛えれば、また長い間にわたって使用に耐えるようなのに対して、今の西洋丸クギは、強度的に持って50年程度、10年経過したら頭が飛んでしまっているのは珍しい事ではないという違いなのです。
 鉄の不純物は明らかに今の鉄のほうが少ないのに、当時と同じ鉄を作ろうにも、今の技術では同じ昔の鉄さえも作る技術さえないという実態があるので、そういう意味でも中世に作られたクギは貴重品なのだそうです。
6月25日
{驚愕の宮大工技術 その2.基礎}
 基礎というのは、今の感覚で言うと地面をある程度掘って、そこに鉄筋を組み、コンクリートを流し込み、その上に木をボルトで固定する方法になっているけど、昔の建築には、礎石という石を敷き、その上に柱を立てていたのは遺跡などでご覧になった方も少なくないと思うのです。
 どっちが良いかという話は、一面で片付けられる話ではないものの、礎石の良さについて触れるとつぎのような事になるのです。
 まず、コンクリートというのは、水を吸い上げる性質があるため、コンクリートの上に木があると、その接触部分は腐りやすい傾向が出てくるわけです。
 ところが礎石だと、そういう傾向が極めて小さいために、柱の下面が腐りにくく、長期間の使用に耐えやすい事になるわけです。
 つぎに、礎石の柱が接触する面は、いくつかのタイプがあり、平に削ったものや自然のおうとつを残したままのものなどがあり、自然の形状のままの礎石に乗せる柱の下面は、その形状に合わせて加工されていて、少々の地震では何の問題も無いし、想定外の大きな揺れが加わった場合は、ずれてしまう事で、その大きな力を逃がす作用があるわけです。
 これも、想定外の揺れが加わった際に、柱の下面だけガッチリ固定していると、力が逃げず、他に無理が加わり、弱い部分が損傷してしまう可能性が高くなるのに、全体のそこそこ揺れて力を逃がす事ができる程度の力の場合はびくともせずに、想定外の揺れには、礎石の決められた位置から柱が少しずれる事で、大きな揺れの力を逃がせるので、建物を損傷させなくても済むという考え方なんだけど、これは言い換えれば「免震構造」という考え方もできるのではないかと感じています。
6月27日
{驚愕の宮大工技術 その3.垂木}
 皆さんは寺社を訪れた時に、建物のどの部分を注視しますか?
 太い柱、壮大な屋根、人によって色々なポイントがあると思うけど、一般建築と特に違う気がするものの1つに垂木があるように思います。
 この垂木というのは、いわゆる軒の下側に見える等間隔に軒先方向に走っている多くの場合は「四角い柱」なんだけど、これ、等間隔だとばかり思っていたら、なんと建物の中央部分の垂木の間隔が狭く、両端にいくにつれて、若干広くなっている構造の建物は少なくないそうなのです。
 等間隔であれば、その周辺の設計も実にカンタンなのに、なぜわざわざ間隔を少しずつ変えていくような面倒な事をするかというと、正面手前から人が見上げた時に、等間隔だと両端に行くにしたがって視覚的に詰まって見えるのに対し、左右の端になればなるほど間隔を広げる事で、そういう視覚的錯覚を防ぎ、端正な雰囲気を演出するためと考えられているそうで、まさか垂木の間隔まで、細かに配慮されているとは思わなかったというのがオレの感想でした。
 しかも、その垂木の上に、木負を介して少しカーブを描いている飛檐垂木を取り付け、それによって屋根の末端に行くに従って緩やかにカーブを描いた姿(軒反り)が演出されているんだけど、それによって品格だけでなく、直線で屋根を設計すると末端がずり下がっているような錯覚にとらわれる人間の視覚の特性を補っているそうです。
 しかも、今の感覚では、建物の基本的な寸法は、柱の位置を決めて、その他の寸法や位置を決めていくというのが、ごく常識的な発想だと思うけど、建物によっては垂木の間隔と本数を先に決めて、それで柱の位置を決定したとしか思えない建物もあるようなのです。
 そういう立て方をすると、いわゆる規格化できないので、非常に手間がかかるのは、皆さんも想像できると思うんだけど、そうしてまでこだわった整然と並んだ垂木の美しさと、こだわりを、是非じっくりと下から見上げてみてください。
 まだまだ続く。。
6月28日
{驚愕の宮大工技術 その4.時代の流れと技術の継承}
 ハイテクも当たり前の事として定着しつつある昨今だけど、皆さんは年代が下るにしたがって、技術は着実に進化しているように感じられていますか?
 全ての分野で全く同じというわけでは無いけど、多くの人の認識と違って、時代をさかのぼれば、さかのぼるほど、豊な技術やノウハウを有していたという意外なケースは少なくないのです。
 現代でも、製造工場を海外移転してしまった影響として、製造技術が継承できなくなったりして問題視されている分野も増えてきているといわれているけど、それは最近の話に限った事では無いのです。

 その1つが寺社建築で、宮大工棟梁として数多くの寺社の修理などを経験された方々の見解としては、天平時代前後が最も素晴らしく、中世までが許容範囲で、その後は明らかに設計も建築技術も衰退しているそうなのです。
 例えば、すでに触れた和クギや鉄についても、江戸時代に作られたクギはダメだそうです。
 木の活かし方についても同じ事が言えるらしく、江戸や明治に修理された建物の中には、修理しなかったほうがよっぽどマシと思えるような修理もあるそうです。
 これらは、技術がうまく継承されていなかったという事だけでなく、一見便利と思える道具が開発されたために、創意工夫をする気持ちが失われてしまったり、過去、なぜ面倒な手法で作業していたかという、それぞれの作業の趣旨を理解しないままに、新しい道具によって似た作業をするようになってしまったからだそうです。
 表面的には効率が上がったものの、実は似て非なる仕上がりになってしまうという大きな教訓と言える気がします。
 そして、中世以前の建築技術を研究し、その頃の理論などを復活させて活かそうという努力をされている宮大工もいらっしゃるものの、それが次の世代に継承されるかどうかという事になると、「実に微妙」だそうです。
 一度失われた技術を復活させるには、倍の時間がかかるとコメントされていたけど、是非、そういう志をお持ちの方がいらっしゃったら、次世代の人間国宝になるべくがんばってもらいたいというのが個人的な願いです。

 ちなみに、現在の在来工法の源流は、江戸時代の建築方法のマニュアル(もちろんマニュアルという名称ではありません)を元に改良され進化しているそうなのですが、もっと昔の思想とは大きく違うのが、今も障害になっていると考えられる部分もあるようです。
6月29日
 ここのところ、寺社建築物の話ばかりなので、「オマエ仕事しとらんだろう・・・(笑)」と突っ込まれてしまいました。
 日誌の更新頻度と仕事の忙しさは、あまり関係なくて、幸いにも仕事をシッカリさせていただいております。(納得?Nクン)
 今朝も、早朝から山口&防府、そして市内に戻ってガラス交換の車の引き取りと、夕方まで出っ放しだったのです。
 そういう「表の業務日誌ネタ」はともかく、今日の遠征シリーズは、予定よりもサクッと終了したので、「もし速攻で予定のスケジュールを終了したら・・・」と、予め考えていたサボリ・・じゃなかった時間活用プランを実行したのです。
 実は、ご存知の方も少なくないと思うんだけど、山口というエリアは、京都、奈良に負けずとも劣らず寺社建築が残っているところなので、ここのところ少し勉強したものを、実物で検証するべく、瑠璃光寺の五重塔周防国分寺に立ち寄って来ました。
 瑠璃光寺の五重塔は、日本の塔ベスト3に数えられる事もある塔で、数多くの観光客も訪れるところです。(オレも幼少の頃に行っています)
 それに反して、国分寺というのは、全国に建立された当時の官寺なのに、当時の多くの建造物を残しているところは非常に少なく、我らが広島でも跡地しか残っていない(はず)なのに対して、周防の国分寺は、門、金堂(仏像を安置してあるところ)そして塀もある程度残っており、残念な事に塔は現存していないものの、いわゆる伽藍のある程度が現存しているのです。
 そして、数名の棟梁の本を読ませてもらっているんだけど、その中の現在も活躍されている松浦棟梁が8年ちかくの歳月をかけて、全解体修理をされたのが、この周防国分寺金堂なので、そのポイントも観察して納得したり、「おぉ!」とうめいたりしたのです。
 そして、これまで、ロクに観察していなかった事が理解できて、視点が広がった事、さりげない凄さをやっと理解できるようになった喜び、今の世の中と違って、自己アピールなんてしない、「わかる人にしかわからなくても良い?」姿勢でこだわった、当時の工人や修理の棟梁のこだわりと美意識の、きっと1/100くらいは理解できたんじゃないかと思っているので、皆さんも是非関心をもってみてください。

{驚愕の宮大工技術 その5.修理時の考え}
 皆さんの地域でも、平成の大修理などと銘打って、部分修理や全部解体しての大修理を何年もかけて行われている寺社があるのではないかと思うのです。
 そういった修理の際の考え方について、大工としての責任者である棟梁と学者や建築家との間で、基本的な考え方だけでなく、方法論についても意見の違いが少なくなく、色々議論になる事があるようです。
 例えば、歴史学者との意見の相違としては、中世に創建された建物を、1度江戸時代に修理されている場合、江戸時代の修理では、本来の形状とは違った修理をされているのが分解した柱の使い方などから想像できる場合に、本来の姿に戻すほうが良いのでは?という大工の意見に対して、その柱を観察して大工として経験論で推測できる事を理解してもらえないため、歴史学者の方に構造上考えられる本来の姿を理解してもらえず平行線をたどったような話も少なくなく、例えば財政上の理由もあったとは思うけど、あの有名な東大寺大仏殿の建物は、江戸時代に建て替えられているものの、建立当時とは全く違う形状になっているんだけど、改修時に本来の姿とは別な形になっている建物は多いようです。(分解する事だけで、以前の姿を推測できる宮大工の観察力には脱帽です)

 建築家との意見の相違を例に挙げれば、1,000年以上保ってきた建物を解体して修理する際に、基礎にコンクリートを打つか打たないか、構造の補強に鉄骨を入れるか入れないかというような議論も多いらしいのです。
 こういった近代にできあがった工法を採用するかどうかは、ある程度強度を計算できるからという建築家の意見に対し、コンクリートや鉄骨は、持ってせいぜい50〜100年、これまで500〜1,000年も持ちこたえた実績のある木組みのほうが良いに決まっているという宮大工としての見解との相違のようで、木の本当の強さをもっと理解して欲しいと感じられているようです。

 もっと唖然としたのは、建築基準法の制約で、元々何百年も健在だった建物を改修する場合や、焼失した建物を再建する場合に、ボルト止めを余儀なくされたり、コンクリートを使用せざるを得なかったなんていう話が多いようで、オレ個人の考え方としては、それぞれの時代の技術で立てられているものを、そういう状態で保存するから文化財として意味があるのであって、外見だけを同じにしても、構造が全く違えば、それは歴史や技術を伝える建築物としては、何の意味も無いという気がするので、棟梁の考えに賛成です。(前出の棟梁とは違う方が、似た話であまりにも議論が平行線をたどるので、たまに学者の方や建築家が見に来た時だけ、金具を付けているようにしておき、実際には装着せずにその周辺も組み上げて、相手には知られずに既成事実を作ってしまったという、武勇伝をお持ちの棟梁もいらっしゃったそうです)
 法的にはどうなのか?そして大人社会の契約履行という切り口ではどうなのか?という問題は多いけど、個人的には、これもやはり棟梁のエールを送りたいというのが、理屈抜きの考えです。

 それに反して、身近な話では、広島城の天守閣は、戦後再建されたものの、実はコンクリート作りなのです。
 ひどく被災した広島の復興のシンボルとして、なるべく早く復旧させたいという願いや、当時の色々な事情からやむを得ない理由もあったんだろうとは思うけど、子供の時に、初めて天守閣に入って、実にがっかりしたのを覚えています。

 こういう問題は、似たような話が日本にはたくさんあって、例えば、つい先日まで、陸上自衛隊の戦車も有事であっても道路交通法を守らなければいけないとか、戦争に限らず大災害で広範囲に被害が生じた時に、そのエリアに野戦病院のようなものを臨時に設置しようにも、これも法律で実現できないというような実態が多いのです。
 せめて、こういう歴史的建造物には、これまでの耐久性が立証されている実績を考慮に入れて、法律も特例を設けてもらいたいというのが個人的な意見です。
6月30日
{驚愕の宮大工技術 その6.木の活かし方と西洋思想と現代の問題点}
 宮大工棟梁の心得として、木組みは心組みだそうです。
 要するに、全体の木の組合せを、それぞれの材料を活かして組んでいくためには、一緒に仕事をする大工全員が、棟梁の設計思想を十分に理解してもらって、心を1つにして仕事をしなければ、良い仕事はできないという事です。
 さらに感心するのは、木の活かし方です。
 木というのは、同じヒノキであっても、当然1本1本クセが違います。
 産地によって異なるだけでなく、南向きの斜面と北向きの斜面で生息していた木でも大きく違ったり、同じ場所に生えている木でも、風の当り方だけでもねじれ方などが変わっているというのは、説明されれば誰でも納得できる話だと思うのです。
 そのように1本1本の特性が違うというのを「品質のバラツキ」と受け止めた近代建築は、強度保証的な意味でも計算しやすい鉄骨やコンクリートを中心にする構造を進化させているし、その前提として均一化した材料を要求しているわけです。

 ところが、「品質のバラツキ」とも見れる木の特性の違いは、個性でもあるというのが、中世までの建築思想の素晴らしいところのようで、切り出した木や大まかに製材された後の木を用いるのではなく、山に入って、実際に生えている状況を見て、どの木を使うか、どこに用いるかという事を考えるのが極意らしいのです。
 曲がりがあっても、それをうまく活かせる所に使うわけで、木の横剛性の特性も考えて、それぞれの桁も寸法を決めるというのです。
 また、現在の常識的な発想だと、品質にバラツキがないものを使う事によって、事前に強度を計算でき、その結果として「強い・丈夫」という考えに至っていると思うのが一般的なのに対し、1本1本個性の違う木を使うからこそ丈夫、また木を継いで使うから丈夫という考え方なのです。
 これを読んで実感したのは、今の教育や社会(会社)では、個性の時代と言われて久しいものの、実態を観察してみると、マニュアルを作り、そのマニュアルで機能するべき同じ素材(均一化)になる事を材料にも人にも求めている、いわゆる西欧的なアプローチなのに対して、中世までの寺社建築では、それぞれの本当の個性を見抜いて、活かせるところにつかうという、実に現代社会や教育界に教訓を与えるような思想に思えてならないのです。
 「あの学生はダメだ」とレッテルを貼られていた学生と接していて、その学生の良いところを見つけてやると、みるみる元気になって見違えるような努力や活躍をした姿を何度も見てきたオレは、この本当の意味での木の活かし方は、人生や現代社会への教訓になる素晴らしい思想だと感じています。

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